日本一の鳶

1月25日、前橋の中村常男さんの訃報が届いた。24日に伯父が亡くなり、中村さんのご葬儀に参列することはできなかった。遥かな地よりご冥福をお祈り申し上げます。

中村さんがいなかったら、私は今日まで梯子乗りを続けていなかった。2000年3月10日~15日、関東鳶職連合会・関東連合若鳶会でホノルルフェスティバルに参加したときの会長が中村さんでなければ。あれから、もうじき21年だ。前橋や高崎の出初式に梯子乗りに来いと招いてくれたり、伊香保の群馬県連慰霊祭にも呼んでもらった。いろんなところで乗るようになったとき、「呼ばれたらどこでも行ってやんな。どこで乗るか電話一本入れといてくれな。中村さんが承知してますって言えば心配ねえよ。」それは、たった一人で初めての土地で梯子乗りする私に、「どこに居ても自分が見守っているから」と言ってくれていたと思う。そして電話すると必ず、「保険入ったか?  落ちないなんてことは絶対ないんだ。どんなに慣れていても。慣れているからこそ、気を抜くんじゃないよ。」と戒めてくれた。傍に居て落ちたら受け止めてあげるからと言われるよりも、重みがある言葉だった。どこで梯子乗りしていても、必ず私を守ってくれている人がいる。迷惑をかけないように振る舞わなければ…という気持ちを持つことにもなる。

前橋や高崎で私がインタビューを受けたとき、「日本一の乗り子」と褒めてくれていたのを思い出した。「日本一と言われるには、全国大会のようなものがあるのでしょうか?」と逆に質問された中村さんは、「そんなものはない。『日本一の鳶』が日本一だって言うんだから間違いない。」とキッパリ答えていて、恥ずかしかった。

今は私も昭和の遺物みたいな乗り子だけど、乗り続けることで、中村さんから受けた鳶の心意気のような目に見えない真髄を、誰かに伝えられるだろうか? とも思う。中村さん、いつまでも私の心の中に生き続けてください。中村さんから受けた御恩、ご家族の皆様にもよくしていただいたこと、先に亡くなられた保さんの優しい声も、私は一生忘れません。

白いイチゴと赤いイチゴ

ホワイトデーの今日、箱根が雪なので熱海回りで箱根湯本へ向かったら、R135が大渋滞でまだ現場に到着できないと、バシ君が泣きそうな声で電話してきました(笑)

今年は安くて美味しいイチゴに巡り合えませんでした。 去年夏の台風被害でしょうか。伊豆のイチゴは地元のスーパーでも高値で、正直なところ味も今一つ…な気がします。

そんな中、湘南ひらつかの真っ赤なイチゴがとっても甘くてウチでは大好評。静岡県東部で作られている「紅ほっぺ」「きらぴ香」とは別の品種だろうと思いますが、全体的に濃~い甘さで酸味少なめ、水っぽくなく引き締まった味っていう表現がいいかしら? 初めて食した湘南のイチゴは、今年一番の大満足でした。静岡東部では売っているのを見たことがないですが。

JA三島函南の直売所で白いイチゴを発見したとき、あまり美味しそうと思わなくて、熟しきれていないような気がしました。「ジューシーで甘い」と表示されていたけれど、見た感じは甘そうではないし。「本当においしいんですか?」とレジの人に尋ねたら、「美味しいんですよ。農家さんに試食させてもらったんですけど。高いので、家で食べるというより、人にあげると珍しくて喜ばれるみたいですよ。」確かに高いけど、試しに買ってみようというわけで、半信半疑で目を瞑って食べてみたら・・・本当にジューシーで、イチゴの味がするではありませんか!?  ホワイトチョコみたいなのに、ホントにイチゴでした。よく見たら、白いのに種だけが赤くてとってもカワイイ。絶対に美味しいなら高くはないです。

京都の節分

空いててよかった京都の節分。

自分が向かう方向が理解できる。これまでは、京都好きな直ボーの背中を見失わないように付いていくのが必至だった。今回は表示が良く見えるばかりか、地下鉄の隣のホームまで良く見えた。そればかりか、「ちょっと待ってて~、ここ寄りたい」って言うのも、普通のトーンで会話して全然OK。マスクしてても聞き取れる。

節分に京都旅行をした理由は、須賀神社の「懸想文売り」。懸想文というのは恋文のことなんだけど、このお札を人知れずタンスやクローゼットの中にしまっておくと着物(服)が増えて良縁に恵まれる。昔はたくさん着物を買えるのはお金持ちの証だから、だと思う。須賀神社の近くにある聖護院門跡は山伏の総本山だそうで、山伏さんが何人もいてビックリ。ありがたやありがたやって感じ。「吉田神社の節分」っていう紙袋を持つ人が多いので、どんなもんかなと思いつつ京大の前を歩いていくと、参道は出店で賑やか。神社には節分福豆の景品がずらりと並んでいた。1袋300円の福豆に番号が付いている。景品の数がスゴイ。

思いがけず、すいててラッキーだったのは、「三嶋亭」のすき焼き。「何年か前から、一度来たいと思っているお店なんだけど、高くて・・・」「貯金するか、三嶋亭積立(笑)。」外観を眺めて、でも諦めきれず再び店の前を通ると、ランチ営業をしているような気配。「予約してないからダメだよね~」と言いつつ暖簾をくぐると、「どうぞ」と言う。私たち、ついてるよね。昼と夜では肉のランクが全然違うと聞き、「次は夜に来たいね。」「OK~、じゃあ、お金持ちを見つけてまた来ましょう(笑)。夜だとお酒も飲むし。」アタシは独身だからいいけどさ、直ボーはダメでしょ、ダンナと来るか、毎月少しずつ三嶋亭積立だ!!

京都の銭湯にも入れた。ホテルから5分位歩いて『柳湯』へ。観光客が多いのでしょう、番台で石鹸を貸してくれて、常連客さんも親切だった。湯上りに鴨川の風に吹かれて月を眺めて歩くなんて幸せ。柳湯は、脱衣場の蛙のモザイクタイル。京都の銭湯、次は絶対船岡温泉。

お客さんがたくさんいたほうがお店は儲かるのでしょうけれど、風情を味わうなら空いているときに行けて良かった。

怪我と弁当

平塚の出初式の帰りは、和パパの家でヤツガシラの煮物とヤーコンとお刺身の夕食をごちそうになる。これがここ数年の『習わし』。熱めのお風呂に入ると、緊張が一気にほぐれる。和パパは昔乗り子だったから、一日中外で梯子に乗っていると体が芯から冷えるのをわかっていて、町回りで寄ると必ず、「今日は何時に終わる予定だ?帰りに寄れよ。」と声を掛けてくれる。平塚で梯子に乗らせてもらうようになったばかりの頃は、須賀の公園に練習ハシゴがあって、年の暮れには夜に練習に通って毎晩のように顔を合わせていたけれど、今では年に一度だけ。稽古中には梯子から遠いドラム缶の火の方から見ていてああだこうだ言ってくる和パパやヒデさんが、本番の式場で披露した後に移動する車の中で開口一番何を言うか!? その緊張感が忘れられない。式場ではまるで審査員のように、正面の脇に木遣り師が並んでいて、じっとこちらを見ている。そして終わった後に、車がまだ駐車場を出ないうちに厳しい評価が下される。心臓がバクバクしたのは、「ヤバい」と思った技の最中ではなくて、車の中だ。今はそんなことを言ってくれる人はなく、「寒かった~」なんて言うくらい。あのころの厳しい目があったから、続けられていると思う。

『昔は、怪我と弁当は自分持ちって言ってな。自分とこの人間は梯子に乗せねぇの。自分のところの若い衆乗せておっこったら一生面倒見なきゃなかんべ?』・・・だから平塚なのに横浜の町の中での梯子乗りの話をするんだ、謎が解けた。 梯子を倒さないで、乗り子を上に乗せたまま移動して次の店(店だか会社だかまでは私には判断できないけれど)の前でまた乗って。いろんな土地から乗り子が集められてるから、初めて見た技を次に自分が乗るときにやってみたり。日当はたいしたことないけど、一日何十か所も乗るから「乗り子さんへ」というご祝儀だけで半年分くらいの稼ぎになったとか。『まるで大相撲の懸賞みたい!!』というと違うらしい。「乗り子さんへ」っていうご祝儀袋は、そのとき乗ってる人間は貰えない、つまり下に居る人が貰うらしい。タイミング悪いと貰えないんじゃないのかしら。 落っこちたり怪我したらお金貰えないどころか、もう二度とその店の前で乗らせてもらえなくなるもんねぇ。下手したら梯子乗り自体禁止になっちゃうかも。それに怪我して働けなくなったらそれこそどうしようもない。絶対しくじれない。昔は「梯子乗り保険」なんてないしね~。いや、保険掛けていても、怪我したり死んじゃったらどうしようもない。お金貰って済む問題じゃ~ない。・・・畑で採れたイモを食べながら、こんな話をしているうちに夜8時半近くなる。それで「明日の二宮があるので、もう帰ります。今から箱根越えて、10時には家に着くかな?」

怪我は自分持ち、治療費や賠償金をもらったとしても以前とまるで同じ元には戻らない。私には、そういう話をしてくれる人がいるのでありがたい。

 

 

佐奈田霊社の狛犬

小田原の石橋山にある佐奈田霊社。毎年、平塚・二宮の出初式&町回り行事が終了した後に木遣の奉賛会で訪れているのだが…子犬を連れた(?)狛犬だと、今年初めて知った。集合時間に間に合うように行くには箱根ターンパイクを下るほうがいいかもしれないと思いついて出掛けにルート検索したとき見つけた。(今年も遅刻したけど。)    毎年行っているのに、いつも同じように駐車場から裏手を回ってしまうから気が付かなかったのだ。本堂正面へ回るにも脇から回るし、江戸消防などの石碑に目が行ってしまって、狛犬さんを見逃していた。

右の写真。私は母犬が子犬を撫でていると見たが、長さんは「親の背中に乗って遊んで、叱られてんだよ。」と言った。さもありなん。ウチの犬たちを思い出してみると、『いい子いい子』なんて褒めて撫でたりしないよなぁ。じゃれ合って遊んでいるかと思うと次の瞬間は、度を越してポカッと手が出たりしてる。koma3別の角度から見ると、確かに叱られてるっぽいね (笑) あまりにも平和ボケしている自分を笑ってしまう。 躾が大事、甘やかしてはいけないのだ。で、左側の子犬は父親の背中の陰からザマーミロ的な顔して見てるって感じ?

霊社のご住職に聞いてみたけれど、子連れ狛犬のいわれはわからないそうだ。ただ、「早くお孫さんを授かりたいという方などが擦りに来られたりしますよ。」・・・お子様ではなくお孫さんか。若い人がわざわざお参りに来るような場所じゃないからかしら? 子供が欲しい若いご夫婦がお参りに来てもおかしくないのに。これを躾と見るならば、「良い子に育ちますように」という祈願をされてもいいでしょうねぇ。

佐奈田霊社は、源頼朝旗揚げの際の「石橋山の合戦」で先陣を務めた佐奈田与一の忠魂を祀った社だそうだ。討ち死にした与一を何故祀っているのか!?  頼朝軍が10倍もの数の平家軍と対峙し絶体絶命の嵐の山中で、ド派手な衣装の25歳の与一が先陣を申し出て、敵の目を引き付けて暴れている間に頼朝は逃れて千葉へ渡り源氏再興が叶った。与一の忠義がなければ頼朝も生きていなかったかもしれない。じゃあ、どうして木遣会の皆さんが小田原の山の中へわざわざ祈願に来るのか?  が不思議でしょ。与一は俣野五郎を組み伏せて首を切ろうとしたが、その前に討った岡部弥太郎の血糊で刀が鞘から抜けずにいたところを長尾新五・新六兄弟に襲われて新六が後ろから首を切られた。このとき、痰が喉に絡んで声が出なかったから味方に声が掛けられなくて無念の最期を遂げたから、その霊魂が喉の病の人々を救うために残ったというらしい。相模湾が一望できる山の上、せき・喘息・気管支炎・喉を使う職業の方々からの信仰が篤い佐奈田霊社へ是非どうぞ。

高校が韮山(源頼朝が流されていたところ)なので、少~し頼朝には興味があるのよね。でも与一のこと・佐奈田霊社のことは、平塚若鳶会と梯子乗りをするようになるまで知らなかった。ちゃんと調べてみたいと思う年初めの気構え。

回線つなぎ

昨日は恒例の川口市消防点検の日だったが、先週末は雨が続き式場の整備ができないとのことで中止になった。金曜日のうちに中止連絡があったので助かった。梯子乗りをお祭りの中でやるときには「やるのかやらないのか当日朝に決定」又は「その場で判断」ということが多い。私の場合とくに県外からその時間の為に出向くわけで、行ったら中止ということになることもあり得る。

ぽっかり予定が空いた日曜日、92歳の伯父の顔を見に行った。今はショートステイのつなぎをしている伯父には、時々会いに行く。おじさんが一人暮らしをしていた頃には、何かのついでに家へ寄ったりしていたけど、面会できる時間があるからなかなかタイミングが合わない。「ボケちゃって話が通じない」というけど、時間をかけて話していると会話が通じてくる。時折回線が繋がるのを待って、噛み合わなくても話しかけているうちに「アケミちゃん、お前この前来たときにはおじさんに忘れられないようにまた来るって言ったのに、随分来なかったなぁ」なんて、『なんだよ!?ボケてないじゃん』みたいなことを言うし、昨日は「俺もなぁ、昨日あたりからそろそろお前が訪ねてくるかもしれないと思っておった。よく会いに来てくれたなぁ」なんて。そう言われると、嬉しくなってしまう。お昼ご飯前で食道に集まっていた時で、同じテーブルにいる女性が「娘さん? お孫さん?」というので「姪です」というと、涙ぐんで「姪御さんが面会に来てくれるなんて、おじさんは幸せね」 私は子供の頃おじさんに娘のように可愛がってもらっていたからと答えたら、「相見互い、今あなたがおじさんに会いに来てくれる。それは素晴らしいこと。」 年のせいで涙ぐむんだかわからないけど、私は普通のことをしているだけなのに、ありがたがられちゃうなんて光栄。「廻り廻って、自分が受けた恩をいつか誰かにお返しできればいいですよね。」と私がいうと 、「そうしてね。私は、大正・昭和・平成・令和と生きてこられて本当に幸せです。こんな所に入れてもらえて人と話もできる。」・・・『こういうところに入れられてしまった』と言うのかと思ったら、彼女は感謝している。青春時代に戦争の悲しい経験をしてきた人。「93年間にはいろんなことがありました。今こうして暮らしていられるのは、戦争で亡くなった方たちのおかげでもある。」お話好きなのね、梅さん。(梅さんの名前の由来も話してくれた)  伯父さんとは回線がつながらなかったけど、戦争中の話とか聞けて、私にはきっと何かの糧になる。「じゃあ、また来るね」というとちゃんと手を振って見送ってくれたのだから、自分に会いに来たということは解ってたみたいだ。良かった。

 

 

現代の名工

2019年 現代の名工150人の一人に選ばれた川島一男さん。おめでとうございます。新聞じっくり毎日は見ていないのに、偶然目に留まりました。2003年ハワイに行った乗り子の川島君のお父さん。曳家工事で選ばれたみたいですが、今では「曳家ってナンですか?」「この漢字、なんて読むっすか?」という鳶職人もいるのではないでしょうか。曳家できる人、少なくなってしまったし、曳くような家も少ないよね。簡単に建てられるということは簡単に壊して建て直せる。引き回せるほど敷地が広い家に住める人も少ない。曳舞いにお金かけるより壊して建替えたほうが安いかも。そうして、技術を持つ人がどんどん減ってしまう。川島君、受け継いでください。鳶職の伝統的な技術を、受け継いで遺してください。

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確かどこかに一緒に撮った写真があったような。龍ヶ崎の30周年ダ!! あった~!! 川島パパはおっかないって聞いていたので、どんな強面かと思っていたら、なんともお優しい方。だいたい鳶の頭のことはみんな「おっかない」と言うのですが、コワがる必要はどこにもない。後ろめたくもなんともないんだから。そもそも自分の父親と比べたらどなたもお優しく見えてしまう。おっかない人も、ある意味絶滅危惧種だよね。おっかないのは、筋がビシッと通っている人だからだと思う。どうしよっかな~困ったな~的な人から見たら、「こうに決まってるだろ!」とパンッと一瞬にして物事を決めてしまう人は恐い。迷ってる時間なんかないわけよ。良くても悪くても、すぐに決断して動く。ダメならやり直す。迷ってて動けないよりは、まず動く。そういう気質の人、今は少ない。

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狩野川台風といわれて

台風19号で被災された方々にお見舞い申し上げます。

私がいた函南町の事務所は12日夕=地震があった頃に停電になり、日付が変わるタイミングで停電が復旧。伊豆半島に上陸してどう進んだのか細かいことはわからなかった。ココだけが停電しているわけけじゃないのに突然真っ暗になって不安もありましたが、母と大声で歌っている間に風が止んで、うっすら月が見えた10時頃に父と車に乗ってTVを見ながら(車ならテレビを見て状況が確認ができるから) 道路状況の確認に行ってきました。

「狩野川台風」と言われたおかげで、私は心構えができたと思う。三島市の水害ハザードマップは狩野川台風の経験をもとに作成されているそうだから、あらかじめそれを見てある程度シュミレーションできていた。一番役に立ったのは、河川ライブカメラ。狩野川の主要箇所の水量を見つつ、伊豆長岡の千歳橋付近に住んでいる社員に電話して早めの避難を促したのですが、台風で休みだから前の晩から呑んで寝ていて「大丈夫ですよ。」って感じ。「ねぇ、なんでもなかったら『アケミさんが言うから避難したのに損しました』で済むんだから、車が動かせるうちに高い所に住んでる友達の家に行ってから呑み直しなさい。」と懇願したけれど結局動かない。別の場所に住んでいる者は「あれから避難しようとしたら、国道が通行止めになっていて家から出られませんでした」という。あ~・・・こいつら、私がこんなに心配してるのにぃ、なんかあっても絶対助けてやんないから!!! ヽ(`Д´)ノプンプン

自宅がある4階建てのアパートの1階住人には、「もしも玄関近くまで水が上がってくるようなことがあったら」ということで4階の空き部屋を開けて避難できるように備えていたのだけど、水がつく事態にならなかった。近所の人にも「危ないと思ったら4階に上がってね」と再三電話をしていたけれど、台風が通り過ぎたころに「ありがとう。逃げなくても大丈夫だったけど、逃げる場所があるだけで心強かったわよ」と電話があった。市が指定している避難所はキャパオーバーでシャットアウトの連絡が町内会を通じて回っていただけに…。「でもね、台風が通過してから川の水かさが増してくるんだからね。夜は水が上がってくるのを目で見て確認できないから、納まったからと言って油断しないで。」と、きっぱり言っておいた。あとは自分で判断してほしい。

危険があるかもしれないから、と引きずっていくわけにはいかないので、最終的には自分がどう決めるかなのだ。どんな選択をしても、どこに逃げても、絶対安全なんてあり得ない、と思うから。

台風恐い

狩野川台風がどんなに恐ろしい台風なのかは、三島・田方平野・沼津では小学生の頃に学んでいる。父はその日、盲腸で入院中だったそうだが、「病院の窓の外はバケツをぶんまけたみたいな雨だった」と言い、東日本大震災直後の恐ろしい光景をテレビで見ていた叔母は「狩野川台風のときとそっくり。」と言っていた。その狩野川台風、再び全国区で有名になってしまった。

狩野川台風のあと、伊豆長岡に「狩野川放水路」ができた。田方平野が洪水から守られるようになった、と思っていた。どんなに雨が降っても「放水路を開ければ大丈夫」って。狩野川がどんな川なのか、どこを流れているのか、目の前の川しか見ていなかった。

放水路で掃けるのは、天城山に降った雨だ。狩野川台風のときには天城山で一夜にして735㎜の降水量だったそうだ。今日もそのくらいの雨が降る予想。だけど「平気。今回は放水路があるでしょう。」と思いこんでいる。朝から事務所で狩野川水系のライブカメラを観察しているんだけど、実は私、放水路を開けても下流は増水するんだって気づいてしまった。今朝までは「満潮・大潮のタイミングで放水路開けられるのかなぁ?」としか思っていなかったけど、自分が住む三島市は、放水路より川下にあって、三島・函南では狩野川に合流する『箱根山から』の川が合流しているのだ。今日は箱根山で、天城よりも降水量が多い。天城の水が放水路で逃げても、箱根の大雨が下ってくるから、狩野川の水は減らないのだ。河川の地図を見ればすぐに気が付くことなのに、私はいままで、来光川・柿沢川・黄瀬川が箱根から狩野川に繋がっていることに対してボーっとしていた。

雨が窓をたたきつけてくる最中、ボーっと過ごしていたことに反省。どうか、自宅が無事でありますように。私は明日までに自宅に帰れるだろうか?

同期のサクラ に

今夜から始まる新ドラマ「同期のサクラ」。建設会社に同期入社した若者の話だそうですが、来週 第2話に、宇都宮の永田さんが出てくるんだそうです!! 現場で仕事を教える鳶の親方役(・・・まんま) 。2話をしっかり見るために、今夜の第1話は決して見逃してはなりませぬ(笑) 。

私はドラマ好きなので、新しいのが始まるととりあえず録画。だから見逃したりはしません。建設会社の話題と聞けば、なおさら毎週録画です。

新入社員研修~!! かなり過去の記憶だ。同期入社した人達は今どこでどんな仕事をしているのだろうか? その当時、設計部に入った女子は私たち二人だけで、一方のサナちゃんが沢口靖子的美人だったので私は目立たず暗~い存在だった(笑)。履歴書の特技欄に「梯子乗り」と書いて人事部長に「これは何ですか?」と笑われたところを、皆川相談役が救ってくれたんだった。楽しかったなぁ、今思い出す限りでは。梯子乗りが特技(趣味)というのは、就職には何もメリットないし、むしろデメリット=変わった人扱い。会社辞めて数年経って、日経新聞に載ったときにやっと「こんな女性がここで働いていたんですよ!! と社内で評判になりました」と言ってもらえた。けど、仕事を評価されたわけじゃないしね。ですが私は、自分がやりたいことをやらせてもらえて勉強させてもらって、当時の佐藤秀工務店に感謝してます。